残念ながら不安を煽るだけで実効性に乏しいというのが実状です(東洋経済オンライン編集部撮影)
昨今の経済現象を鮮やかに切り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第25回。
不安を煽るだけのアプリに
6月19日から利用可能になった日本版接触確認アプリ「COCOA」には、いくつかの深刻な問題があることが明らかになりました。システムの不具合は修復されたのですが、COCOAの運営に不可欠な感染者情報の収集システムHER-SYSが完全に機能していません。
さらに、COCOAから通知を受けても、大部分の人が検査を受けられませんでした。保健所の実情を考えると、これが容易に改善されるとは考えられません。COCOAは、不安を煽るだけのアプリになっています。
新型コロナウイルスに関して、「接触確認アプリ」というものが開発されています。
アプリの利用者同士が一定の距離内に近づくと、お互いのデータを記録します。そして、新型コロナウイルスの陽性者がその情報をアプリに登録すると、過去14日間に半径1m以内で15分以上接触していた人に通知されるのです。
この原型は、アップルとグーグルが共同開発したアプリです。
うまく機能すれば、コロナと共存する社会での強力な武器になるでしょう。
日本でも、厚生労働省による日本版接触確認アプリCOCOAが、6月19日から利用可能になっています。
接触確認アプリがうまく機能するためには、多くの人が使うことが必要です。
少なくとも全人口の6割の人がダウンロードしなければ、機能しないと言われています。
そうなるかどうか? 当初、私は、2つの問題があると考えていました。
第1は、陽性者がその事実を自発的に入力してくれるかどうかです。
これは難しいのではないでしょうか?
陽性者は、自分のことをどうするかが最優先の緊急事項であり、データを入力する余裕などないかもしれません。
また、匿名性が確保されているとはいえ、何らかの理由で自分が陽性であることが知られてしまうと問題が生じると考えて、入力を控えるかもしれません。
第2は、人々が、このアプリを進んでダウンロードするかどうかです。そのために、何らかのインセンティブを与える必要があります。
政府の説明によると、通知された場合、「発熱などの症状がある」とアプリに回答すると、近くの専門外来の連絡先が表示されて受診するよう案内されるとされていました。
また、症状がなくても「家族や友人、職場の同僚など身近に感染した人や感染が疑われる人がいる」と回答すると、専門外来の受診案内が表示されるとされていました。
感染した人と接触した可能性がわかることで、PCR検査の速やかな受診につながり、感染拡大の防止が期待できるとされたのです。
問題は、これがダウンロードのための適切なインセンティブになるかどうかです。
最初から不具合
上で述べたのは、「人々がこのアプリにどう反応するか?」という問題です。
ところが、実際には、システムそのものに重大な欠陥があることが明らかになったのです。
まず、このアプリは、運用開始の初日に不具合が生じて、運用停止になってしまいました。
このアプリで陽性申告をするには、厚生省などの保健機関の承認ステップが入ります。つまり勝手に陽性申告はできないようになっています。
しかし、感染を自己申告する際に必要な8桁の「処理番号」の発行を受けなくても、任意の数字を入力すれば「完了しました」と表示されてしまったのです。
これでは、感染していない人でも「感染した」という情報を入力できることになり、混乱が生じるでしょう。
この不具合は是正されたのですが、問題はそれだけではありませんでした。
次の問題は、COCOAを運営するための感染者情報です。
感染状況の把握は、5月末までは、NESIDというシステムで行われていました。
ここでは、新型コロナの感染者を確認した医療機関が、手書きの「発生届」を作成します。それをファクスで保健所に送信します。受け取った保健所は、記載に不備がないかどうかを確認し、個人情報を黒塗りにするなどして、厚生労働省や都道府県にファクスで転送します。
そもそも今時、手書きとファクスとは、信じられないことです。
このシステムは、感染者急増によって当然ながらパンク状態になり、入力作業が遅れました。
そこで、HER―SYSという新システムが導入されました。
ここでは、感染者が確認された場合、タブレットなどで必要な情報を入力します。このシステムによって、自治体、医療機関の迅速な情報共有が可能になり、事務負担の軽減につながると期待されました。
HER-SYSは、5月29日から、都道府県、保健所、医療機関で利用開始されています。しかし、既存システムからの移行や自治体ごとの個人情報保護条例の手続きに時間がかかり、本格運用はなかなか進みませんでした。
7月3日時点では、保健所を設置する155自治体のうち、43自治体(28%)がHER―SYSを利用していませんでした。
しかも、驚いたことに、感染者が多い東京都や大阪府で利用が進んでいなかったのです。
8月3日時点では、導入が完了していないのは東京・港区、世田谷区の2自治体のみになりました。
ただし、情報を入力する各医療機関がどこまでHER―SYSに移行しているかどうかは、不明です。
医療機関から保健所、保健所から都道府県への報告は、依然としてファクスで行われている場合が多いと言われます。大半の自治体では、医療機関からファクスで患者の報告を受けた後、保健所がHER―SYSへの入力を代行しており、保健所の業務軽減につながっていないとも言われます。
ところで、COCOAの処理番号は、HER-SYSが発行するのです。それが以上のような状況では、陽性者と接触していても、COCOAで迅速にその事実を知ることはできないことになります。
実際、接触から通知までには1〜2週間の時間差が生じることがあるといわれます。
これでは、情報を受け取るのが遅すぎて、役に立たないのではないでしょうか?
検査できない人が8割も!
問題は、以上にとどまりません。実は、もっと深刻な問題があります。
先に述べたように、アプリをインストールするインセンティブを人々に与える必要があります。
当初、「COCOAから接触通知を受けた場合には、専門外来で受診するよう案内される」とされていたので、多くの人は、「保険で検査が受けられる」と考えたと思います。私もそう解釈しました。
ところが、8月23日の日本経済新聞によると、COCOAで通知を受けた人の8割は、検査を受けられなかったというのです(接触アプリ通知来ても「検査受けられず」8割 本社調査)。
「通知は来たけれど検査は受けられない」というのでは、不安を煽られるだけでしかないことになります。
「6割の国民が接触感染アプリを利用すれば大きな効果がある」とされていました。この推計は、検査態勢についてどのような仮定を置いてのものなのでしょうか?政府は明らかにすべきです。
「検査を受けられない」という不満を背景に、厚生労働省は8月21日、「感染者と濃厚接触した可能性があるとCOCOAから通知を受けた場合、希望者全員が無料でPCR検査を受けられるようにする」と発表しました。
ところが、上記の日経記事によると、「保健所の業務は再び逼迫しており、迅速に検査が受けられるかどうかは不透明」「問い合わせが今後殺到するようなら、人手が足りるか不安は拭えない」というのです。
「通知が来れば検査を受けられる」との8月21日の約束は、こうした実情を踏まえてのものでしょうか?
仮に国民の6割がCOCOAを利用し、陽性登録率がかなりの率になった場合、膨大な数の接触通知が利用者に送られるでしょう。
こうなったとしても、必ず検査が受けられる体制になっているのかどうかを、国は明らかにしなければなりません。もし対応できないなら、大混乱が生じるでしょう。
疑問はつきません。検査してくれるというのですが、すぐに検査してくれるのでしょうか? 同居家族なども対象となるのでしょうか?
これらについて保証してもらえないと、COCOAが「不安を煽るだけのアプリ」であることに変わりはありません。
人々は政府を信頼するか?
COCOAのダウンロード数は、8月21日時点で1416万件、陽性登録は360件となっています。
ダウンロード数の全国民数に対する比率は1割強でしかなく、目標とされる6割にははるかに及びません。
また、8月末の段階での感染者総数が6万人強であることを考えると、陽性者のうちCOCOAに報告した人の比率は、0.5%程度をかなり下回ると考えられます。
このように、COCOAはほぼ機能していない状態です。
新型コロナウイルスの感染拡大が今後も続く場合には、より強力な接触確認システムの採用を議論すべきかもしれません。
その場合には、「疫病のコントロールか、個人のプライバシーか?」というきわめて困難な問題に直面することになるでしょう。
その際、重要なファクターとなるのは、人々が政府をどの程度信頼するかです。
政府が信頼を確立するには、ここで述べたような疑問に正面から答えることが必要です。
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